oshiro の日記

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正論は殴るべき武器ではなく、進むべき道を照らす灯台である

正論は殴るべき武器ではなく、進むべき道を照らす灯台である

※ポエムです

筆者の主張

前提の確認

 まずこの手の話題に触れる前に前提を固めておきます。 この記事では「正論」とは とある議論の場において問題の達成もしくは問題解決に対して到達点のみに焦点化した手段の主張。またはあるべき状態の主張 とします。つまり「Aという問題に対してはBすべき」のような論を指します。 また、議論中における正論について論じますが議論参加者は当該の立場において、必要なリテラシーを備えている善意の人物であることを想定しています。

主張

 筆者の主張は表題通りですが「正論なき議論には意味はあるが正義はなく、新たな問題を生む」というものです。正直に言って極論ですね。別にここまでの過激派ではありませんが、立場を明らかにするためにいったん言い切ります。

 これはどういうことかと言うと、とある目的が存在しておりその何かしらの目的を達成するために議論をするのであり、そこにはすべての悪を排した正論が必要ということです。 悪というのは予算であったり納期であったりという、一般的な制約や条件を指しています。議論をするためには誰もが「そうあったらいいのにな、けど現実はそうじゃないよね」という理想を用意することが重要です。

 一般的な議論やミーティングなどでは議題が存在します。議題は「予算の割り振り」や「システムアーキテクチャの構成」であったり、概ね解決すべき問題や何かを決定することでしょう。おそらく多くの場合には発起人が作成した草案が存在していて、それを基にしてこの数値は高すぎるとかこの構成箇所は欠陥があるとかといってそれを全員でより良いものに変更していくという方法で進めていくものです。
 学生であれば教官と論文の研究手法や比較対象を設定するために似たようなプロセスを踏むことでしょう。

 もちろんこのプロセスは否定すべきものではなく、十分効率的で意味のある建設的議論です。しかしこの方法はえてして近視眼的な議論となり、直近の問題を解決はできるものの中長期的にはその解決策に起因する別の問題を引き起こします。
 極端な例ですが、世界平和と武器根絶を謳う集団が当面の運転資産の確保のために武器売買や闇取引で資金を獲得してもそれは長期的にはマイナスの効果しか生み出しません。世界平和実現のための手法で資金を獲得できる手法を考えるべきであるというのは正論ですが、これが考慮されていればもっと別の手段を考えることができたかもしれません。システム開発であれば問題解決のために別のツールを導入することで、結果としてより複雑な問題を引き起こすかもしれません。
 また、研究活動であれば本来社会的に有意義な研究活動をしたいと思っていてそのために新たな化学反応式を発見するという目的があったとしても、学位論文の締め切りや競争的資金の獲得のために論文を書くということそれ自体が目的となり従来の反応式に適当なパラメータを変更しただけの式に関する論文として完成させてしまうこともあるでしょう。

 これをモデル化して考えると、議題とはつまり問題でありそのための手段を議論していると言えます。ここには主要な構成要素である目的が欠損しています。つまり全ての問題にはその問題の解決によってどうなりたいのかという目的が存在します。
 すべての問題解決は問題を解決するために存在するのではなく、目的を達成するために存在するというより上位の目的が見失われています。そして多くの場合では問題解決によって達成したい目的というのはより上位の目的に結びついているものであり、問題を解決する手段というのは上位目的に反するものであってはいけません。企業であれば全ての活動は経営理念の達成のための活動であり、決して利益獲得が目的ではないはずですね。
 利益や経済的成長は経営理念達成活動のための資金を確保する手段であり、それ自体が達成すべき目的ではないはずです。しかし、上位目的がとある意思決定の場において失われれば、より下位の資金獲得という目的が最重要な目的となってしまいます。そうなると長時間労働やグレーゾーンの侵犯、不正行為などが行われてしまいます。

 以上より正論とは自身含め集団をあるべき姿として保ち、その振る舞いを規定するものであると言えます。このような意味で正論とは「より正しい方向へ議論、ひいては自分たちを導くための灯台」となるべきものであるという主張でした。

なぜ正論は嫌われるのか?

 とはいえ現実を忘れて概念と化した正論が宗教戦争や戦争の正当化、大量殺人を行ってきたように、現実を見据えない正論も同様に人を傷つけます。正論は「最も有効な手段、もしくは状態」であるが故に、それを達成・実行することは常に困難です。上記の主張を見た方の中には制約を取り払って考えてもそれには意味が無いと思う方がいても不思議ではありません。
 我々はイデアに存在するのではなく、現実の存在であるため常に干渉しあって存在しています。一方だけが存在を主張することはできません。貴重な時間と頭脳という資源を消費して生産した結論が机上の空論では意味がありませんので、現実解を出さなくてはいけません。他者や制約を無視して自分だけに都合の良い、あたかもそうあるべきであるかのような主張を行うことはしばしば正論と呼ばれ、忌避されるべき言論となります。
 これらの言は誤りかそうでないかというと誤りではありません。しかし、その言葉には目的達成のため意味が含まれているかというとそうではありません。
 近年目にする機会の増えてきた学校の一見無意味な校則などはこれに当てはまるものだと思っています。化粧や派手な服装などは近年規制が緩くなってきていますが、まだ女子生徒の下着は白のみなどの校則があるという話も耳にします。これらを『校則は守るべきだから』と言ってしまうのは一見正しそうです。しかし、これはどこに目的があるのでしょうか。この校則を守った結果どうなりたいのかはまるでわかりません。
 服装の自由を許す程度で校内の風紀や規律が乱れるというのは学校経営力の無さの話ではないでしょうか(学校関係者各位には申し訳ありませんが、学校単位の話ではなく学校制度の話として捉えていただけると幸いです)。これは本来学校の風紀や規律を正す役割を持つ者が自らの怠惰を正当化するためにそれらしく仕立て上げた「目的のない正論」であるといえます。

正論は主張するものではなく比較である

 では議論において正論をどう扱えばよいのでしょうか。筆者は正論とは基準であり、比較対象であると考えます。
 我々はどうあるべきか、どうふるまうべきかという指標こそが正論であり、現状とあるべき姿の乖離を浮かび上がらせることができます。実務においては問題こそが問題となりがちです。しかしその問題というのは上位目的からしてみれば分岐点に過ぎません。複数ある分岐の中からどの道を進むのかという決定においては、様々な要因が関わってきます。予算や納期、充てられる人材や設備などの制約の中で最適解を出すことを求められます。ここで決定を下すということは非常に難しいことです。
 多くの場合はある程度絞り込まれたどの分岐に進んでも結果は一つしかなく、誤りであることを立証できないという点が意思決定の難しさです。この意思決定というプロセスにおいて重要になる基準が正論です。

 先の平和団体の例で考えてみます。目下の資金として1,000万円必要であったとします。そのための方法として以下の3つが考案されました。

  1. 募金活動を拡大する
  2. 高単価で需要のある商品の売買をする
  3. 保有資産を運用する

 これらはどの方法でも1,000万円を用意できるとします。資金獲得という目的を達成できるという点ではどれも正解でしょう。しかし、最も確実に早く実現できるからといって 2 を選択するのはどうでしょう。最速で資金調達ができたとしても組織体が崩れることで運営危機を招きかねないので選択肢から外れます。では 1 と 3 ではどうでしょうか。平和の理念を掲げて募金活動をすることは賛同者の獲得や広報にもなり、自分たちの価値を最大限発揮しながら資金を獲得できます。
 しかしこの選択肢には 1 点問題があります。現実的でないということです。募金や寄付だけで目標額を達成するにはかなりの人員と年月がかかります。ようやく資金が集まったころには本来やりたかった活動ができなくなっているかもしれません。

 では 3 の選択肢はどうでしょう。一見すると自分たちの理念には整合しませんが、かといって矛盾しているわけでもありません。資産運用はあくまでも理念達成活動を行うための手段であり、自分たちの持つ資源や時間という制約を考慮すると最も早く資金を獲得して自分たちが本来持つ目的を実現する機会を得ることができます。

 正論という灯台の明かりは方向を示してくれますが、その道中を保障するものではありません。光の指すままに進み続けると強大な障壁に直面する可能性もあります。

正論で殴ってくる相手に立ち向かう

 前節で触れたように正論は向かうべき方向を示してくれるがその道中を保障しません。現実を無視し正論を振りかざすという行為は道を尋ねられた際に「右です」と答えるようなものであり、慈善団体は募金と寄付活動以外で収入を得てはいけないというようなものです。
 しかし、実際には無意識のうちに正論を振りかざす人に出会うことは少なくありません。ミーティングで進捗の良くない人に対して仕事ぶりがよくないからもっと効率的に働かないといけないという指摘をしたり、研究報告に対して研究は新規性があるべきだがこの研究には新規性がないから無意味だと言い放ったり、これらは指摘内容が正しく重要な意味を持っている正論です。しかし、東京に行くには東に行かないといけないのにあなたは北に向かっていますよと指摘されたところで、おそらく本人もそんなことは知っています。しかしなんらかの理由で東に向かえないので北に向かってしまっていたのでしょう。新幹線代を稼ぐためにバイトを探していたのかもしれませんし、そもそもコンパスがなく東がどちらか分からないのかもしれません。

 正論に正論で立ち向かうのは愚策です。相手の目的地が正しいことを認め、一緒にどのような道程で進めばよいかを考えましょう。そして正論を振りかざすだけで道程を考えない人は相手を変えたいという意思はなく、自分は間違っていないという確認をしたいだけです。

さいごに

 正論とは灯台の灯であり、羅針盤です。当たり前に存在し、進むべき道を知っているひとには必要性について意識することもないものでしょう。しかし、道を新たに切り拓く開拓者や標を失った迷い人には進む先を教えてくれる重要な機構です。みんなで幸せになるために道を間違えずに進むものであり、誰かを否定するためにふるう人が 1 人でも減ってくれることを切に願います。